かつて、同人を作る人と読む人のあいだには、はっきりとした隔たりがありました。作り手の姿は、奥付の数行と、あとがきの走り書きにしか現れませんでした。いまは違います。作り手の朝の機嫌も、締切前の焦りも、売上への落胆も、タイムラインに流れてきます。その変化を「距離が縮まった」と呼ぶのは簡単ですが、この記事はその言い方をいったん疑うところから始めます。そして最後に、サークルを観測対象にしているこのサイト自身の立ち位置を、自分で点検します。
距離は縮んだのではなく、見えるようになった
SNS以降に起きたことを正確に言い直すと、「作り手と読者の距離が縮んだ」というより「作り手の側面が可視化された」という表現のほうが、おそらく実態に近いのだと考えられます。両者のあいだにある関係の非対称性そのものは、実は何ひとつ変わっていないからです。
読者は作り手を知っています。何を描き、何に怒り、何を好み、いつ寝るかまで知っている場合すらあります。しかし作り手は読者を知りません。読者は数字であり、通知の総量であり、名前のない購入者の集合です。この非対称は、作品しか流通しなかった時代から、まったく同じ形で残っています。増えたのは情報の量だけで、方向は増えていません。
■ 一方向の関係に、双方向の錯覚が乗る
この構造には、実は70年前から名前がついています。パラソーシャル関係(parasocial interaction)——メディアを通じた受け手が、演者との間に、あたかも相互的な関係があるかのように感じる、一方向的な結びつきのことです。この概念は Donald Horton と R. Richard Wohl が1956年に提唱したもので、原論文の題は “Mass Communication and Parasocial Interaction” とされています。
この関係の要点は、「関係をコントロールしているのは、それを体験している側ではなく、演者(ペルソナ)の側である」という点にあります。そして受け手の側では、それが相互的な関係であるかのように感じられる——研究の記述ではこれを幻想的な体験と呼んでいます。
この定義の妙は、「関係が一方向であること」と「一方向だと感じられないこと」が同時に成り立つ点にあると考えられます。片思いなら、片思いだと本人が知っています。パラソーシャル関係では、受け手の実感のほうが先に相互性を帯びます。だからこの関係は、受け手の節度や賢さと関係なく成立するのだという見方ができます。誰かが思い上がっているから起きるのではなく、メディアの形式がそうさせている。この前提を置くかどうかで、後述する「境界」の話はまったく違うものになります。
テレビの時代に作られた概念が、なぜ同人の話に効くのか。答えは単純です。同人でも、関係をコントロールしているのは作り手の側だからです。何を投稿し、何を伏せ、どこまで見せるかを決めているのは作り手です。読者が受け取っているのは、作り手が提示することに決めた面だけです。にもかかわらず、それが毎日届くために、読者の側には「知っている」という感覚が積み上がります。この積み上がりが、後で厄介なことを起こします。
可視化がもたらした利益は、確かに大きい
功罪の「功」から先に言っておきます。可視化は、同人にとって多くの場面で歓迎すべき変化でした。
■ 発見の経路が変わった
店頭の棚や、検索結果の上位や、ランキングを通らずに、作品が読者に届くようになりました。作り手が自分で作品の断片を出せるようになったことで、流通側の選別を経ないルートが開きました。無名のサークルにとって、これは以前には存在しなかった入口です。
■ サークルの継続が読者から見えるようになった
本サイトが繰り返し扱っている「サークルという単位」が読者から観測可能になったのは、この可視化の直接の恩恵です。以前は、あるサークルがまだ活動しているのか、次があるのか、それとも静かに終わったのかを知る手段がほとんどありませんでした。いまは、更新が止まったことすら情報として受け取れます。サークル軸で作品を追うという読み方そのものが、可視化を前提として初めて成立したとも言えます。この記事が最後に戻ってくるのは、この点です。
■ 反応が作り手に返るようになった
作った物が誰かに届いたという手応えが、直接返るようになりました。原理的に見れば、これは作り続ける動機の補給路です。ただし、同じ路を通って別のものも返ってきます。
同じ可視化が、そのまま負荷になる
ここから「罪」の側です。ただし注意深く書きます。以下は、頻度や割合の話ではなく、構造として何が起こりうるかの話です。「よくあること」だと読まないでください。可視化というひとつの変化が、どこまでを必然として連れてくるのか——その射程を測るのが、ここでの目的です。
■ 反応の路は、双方向で開いている
感想が届く路と、失望が届く路と、要求が届く路は、同じ一本です。片方だけを開けておくことは技術的にできません。作り手が受け取り口を開いた瞬間、そこには「よかった」も「なぜ描かないのか」も同じ形式で入ってきます。作り手が受け取り口を閉じるとき、それは感想を拒んでいるのではなく、一本しかない路を閉じているのだと考えたほうが、事実に近いはずです。
■ 数字が並ぶと、比較が発生する
反応が可視化されるということは、反応の多寡も可視化されるということです。作り手にとっては自分と他人の数字が、読者にとっては自分が支持した作り手とそうでない作り手の差が、意図せず目に入ります。誰も比較を望んでいなくても、可視化された数字は勝手に並びます。
■ 提示は仕事になり、やがて義務のように振る舞い始める
最初は作品の告知だったものが、日常の共有になり、やがて「更新しないと存在が忘れられる」という感覚に変わることがあります。表現の外側にある作業が、表現そのものと同じくらいの重さを持ち始める構造です。海外の創作者・配信者を対象にした議論でも、露出の維持それ自体が負荷になるという指摘は繰り返し出てきます。同人の作り手が置かれている条件はそれとは違いますが、「提示を止めると存在が薄れる」という仕組みそのものは、媒体をまたいで共通しているように見えます。そしてこの負荷が厄介なのは、誰も要求していない点です。読者は更新を命じていないし、作り手も義務だとは思っていない。それでも「止めたら消える」という感覚だけが残るのだとすれば、それは加害者のいない圧力です。
「追いかける」と「踏み込む」の境界はどこにあるか
ここが、この記事の中心です。SNS以降、読者の側にははっきりした難問が生まれました。好きであることと、迷惑であることは、どこで切り替わるのか。
境界線をマナーの箇条書きにするのは簡単ですが、それはあまり役に立ちません。ルールは常に例外に負けるからです。もっと構造的な線の引き方を、ひとつ提案します。ただしこれは提案であって、規範ではありません。
■ 作り手が提示した面の内側にとどまる
先ほど確認したとおり、この関係をコントロールしているのは作り手の側です。何を出すかを決めているのは作り手です。だとすれば、作り手が自分で提示した面を扱うのが「追いかける」で、提示していない面を推定・特定・要求するのが「踏み込む」だと整理できます。
この線は、意外に多くのことを説明します。作品の傾向を分析するのは、作品という提示物を扱っています。作風の変化を読み取るのも、提示された作品の並びから読んでいます。一方、作り手の生活・所在・素性・別名義を推定することは、提示されていない面に手を伸ばしています。前者と後者のあいだには、熱意の差ではなく、種類の差があります。
■ 「知っている」という感覚は、根拠にならない
パラソーシャル関係の厄介さは、蓄積が確信に変わることです。毎日投稿を見ていると、読者の側には「この人のことを知っている」という感覚が育ちます。しかしそれは、作り手が提示することに決めた面を、繰り返し見た結果にすぎません。知っているのは提示物であって、人ではありません。
この取り違えが起きると、行動の根拠がずれます。「知っている」から要求してよい、「支えてきた」から応えるべきだ、という飛躍が生まれます。関係が一方向であることを忘れた瞬間に、追いかけることは踏み込むことに変わります。好意の量は、境界を越える許可証にはなりません。
■ 応答がないことは、拒絶ではない
関係が一方向である以上、応答がないのが既定の状態です。返事がないこと、反応が薄いこと、SNSから離れることは、いずれも読者に対する評価ではありません。作り手が自分の提示範囲を管理しているだけです。これを冷たさや裏切りとして受け取ってしまうと、その落差を埋めようとする行動が、そのまま踏み込みになります。
観測する側の危うさ——このサイト自身について
ここまで読者の側の境界を論じてきましたが、この記事を書いている立場は、その論の外側にはいません。本サイトは「サークルを観測する」ことを掲げています。つまり、いま論じた境界線の上に、自分自身が立っています。これに触れずに終わるのは不誠実なので、自分で書きます。
■ 観測は、対象に選ばれていない
作り手は作品を提示しました。感想を受け取ることも、おそらく想定の内でしょう。しかし「分析対象になること」に同意した覚えはないはずです。観測される側は、観測する側を選べません。これは分析という行為が構造的に抱えている非対称であり、丁寧に書けば消えるものではありません。
■ 分析は、称賛の顔をして踏み込むことがある
「この作風の変化には、こういう事情があったのではないか」——この種の推論は、分析として自然に出てきます。しかし作り手が事情を語っていないなら、それは提示されていない面の推定です。好意的な推論であっても、根拠がなければ推定であることに変わりはありません。敬意のある踏み込みは、踏み込みでなくなるわけではありません。
■ だから本サイトが自分に課している制約
この危うさに対して、本サイトは以下を運用上の制約としています。守れているかどうかを判定するのは読者であって、この宣言自体は第三者の検証を経ていない自己申告です。
| 制約 |
理由 |
| 実在のサークル名・作家名・アカウント名を出さない |
特定可能な個人を分析対象にしないため。類型と構造で論じれば、主張は成立する |
| ランキング・優劣の格付けをしない |
可視化された数字を並べ直す行為そのものが、比較の圧を再生産するため |
| 作り手の意図・事情を推定して断定しない |
語られていない事情は、こちらからは見えない。見えないものは、考察として書く |
| 確証のない事柄を、事実の形で書かない |
もっともらしい記述で埋めることは、対象に対しても読者に対しても加害になりうる |
この記事が、日本の同人に関する数値も年号も固有名詞も出していないのは、この制約の帰結です。個別の事例を語らずに、構造だけを語る。物足りない書き方に見えるかもしれませんが、観測する側が対象を傷つけずに書ける範囲は、たぶんそのくらい狭いのだと考えています。具体的で面白い記述と、踏み込まない記述は、しばしば両立しません。そのときどちらを捨てるかが、観測する側の立場を決めるのだと思います。
サークル軸で追うとは、結局なにを追っているのか
本サイトの最初の記事は、「同人は作品ではなくサークルで追うと面白い」という主張から始まりました。この記事は、その主張に対する対の位置にあります。サークルで追うということは、人に近づくことなのか——この問いに答えないまま、その主張は完成しないからです。
■ 追っているのは人格ではなく、仕事の連続
答えは、否です。サークル軸で追うというのは、作り手という人物に近づくことではありません。ひとつの名義から出てきた作品の連なりを、時間軸に並べて読むことです。作風が変わった。単価の付け方が変わった。更新の間隔が空いた。これらはすべて、提示されたものの側にあります。人物の内面ではなく、仕事の軌跡です。
作品単位の消費が「この一本は面白かったか」を問うのに対し、サークル単位の消費は「この作り手が何をしようとしてきたか」を問います。後者は前者より深く見えるので、しばしば「作り手に近づく行為」だと誤解されます。しかし実際には、見ているのはあくまで提示物の集合です。深さの方向が、内面ではなく時間になっているだけです。
■ サークル軸は、むしろ距離を作る読み方でもある
ここに、ひとつ皮肉な逆転があります。作品単位の消費のほうが、実は作り手に踏み込みやすいのです。一本の作品に強く反応した読者は、その熱をどこかに向けたくなり、向ける先は作った人しかありません。一方、サークル軸で追う読者は、対象が「作品の連なり」なので、熱の向かう先が作品側に留まります。
サークルを単位に読むという行為は、作り手という人間を経由せずに、作り手の営みを理解する方法だと言い換えられます。人格に接近せずに、仕事に接近する。この分離ができるかどうかが、追いかけることと踏み込むことの分かれ目です。これは本サイトの解釈です。そして、この解釈が成り立つからこそ、このサイトは「観測記録」という名前を使えます。
■ 20本目の結論
SNSは、作り手の面を可視化しました。それは同人にとって、発見の経路を増やし、サークルという単位を読者から見えるようにした、大きな利益でした。同時にそれは、一方向の関係に双方向の錯覚を乗せ、比較を発生させ、提示を義務のように振る舞わせました。功と罪は、同じひとつの変化の表と裏です。
そのうえで読者にできることは、可視化された面を、可視化された面として扱うことです。提示されたものを読み、提示されていないものを推定しない。作り手が姿を見せたことは、こちらが近づいてよいという合図ではありません。それは、こちらが読むべきものが増えたというだけのことです。
本サイトも同じ線の上に立っています。この記事で述べた制約を、次の記事で破らない保証はどこにもありません。だから書いておきます。観測は、対象に許されて行うものではありません。許されていないと知ったうえで、踏み込まない範囲を自分で狭く引くしかない行為です。その狭さを保てなくなったとき、このサイトは観測記録であることをやめます。
なお、ここに書かれた線引きは、公開情報と構造的な推論から組み立てたものであり、同人の現場で実際に何が起きているかを代弁するものではありません。それを代弁できると考えることが、たぶん最初の踏み込みです。