※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。18歳未満の方は読めません。
「ただいまー。ごめん悠、遅くなっちゃった」。夜の八時すぎ、玄関のドアが開いて、疲れた顔の玲子(れいこ)が、スーツ姿で帰ってきた。妻の玲子は大手メーカーの管理職で、今週はずっと出張続きだった。リビングでは、四歳のひなが、お気に入りの絵本を抱えたまま、ソファで小さな寝息を立てている。
「ただいま」と、家の匂い
「お帰り、玲子。お疲れ様。ご飯、温め直すよ」
「助かる……。今週ずっと出張続きだったから、家の匂いがすると、ホッとするわ」
バッグを置き、ジャケットを脱ぐ玲子。食卓に並べたのは、作っておいた豚の生姜焼きと、タッパーから出した小鉢。玲子は缶チューハイのプルタブをプシュッと開けると、喉を鳴らして一口飲み、ふう、と長い息を吐いた。「やっぱり悠の作るご飯が、一番落ち着く。いつもありがとね」。「ううん。仕事、大変だったでしょ」。
何気ない夫婦の会話。何気ない、家庭の匂い。味噌汁のお椀を運びながら、悠は、喉の奥をきゅっと締め直した。ほんの数時間前まで、自分は看板もない密室で、スイミング講師の莉乃(りの)の、汗ばんだ肉体に貪られていた。その同じ手が、今はこうして、妻の前に食事を並べている。
出張明けの、妻の誘い
ひなをベッドへ運んで寝かしつけ、風呂から上がった玲子の待つ寝室へ向かう。「悠……まだ、起きてる?」。暗がりの中で、ベッドに入ろうとした悠の袖口を、玲子がそっと引いた。「出張続きで、寂しかった……ちょっとだけ、ダメ……?」。
暗闇の中で見つめてくる、妻の瞳。夫を完全に信頼しきった、まっすぐな眼差しだった。罪悪感が、胸を強く締めつける。それでも――いや、だからこそ。妻を抱けば、自分はまだ正気だ。元の、良い夫に戻れる。そう言い聞かせるように、悠は玲子を抱き寄せた。「……うん。僕も、会いたかった」。
覚えのある、手つき
重なる、慣れ親しんだ妻の体温。だが、一度火のついた悠の身体は、自分でも戸惑うほど、「外の女たち」から与えられた刺激に、馴染んでしまっていた。
(……優しく、いつも通りに抱くんだ)。心の中で唱えながらも、悠の手は、無意識に動いていた。玲子のナイトウェアを脱がせ、太ももの内側に手を添える。ママ友の麻衣(まい)の湿った愛撫で覚えた、指先の余裕。莉乃に叩き込まれた、股関節をほぐす、力強く滑らかなタッチ。
「ん……っ! あ……っ」。玲子の口から、これまで聞いたことのない、高く艶っぽい吐息が漏れた。背をのけぞらせ、彼女は悠の腕に、きつくしがみついてくる。
「最近、いいことあった?」
「っ……悠……? 今日、なんか……すごい……っ」。ハッとして、悠の手が止まる。背中に、嫌な汗が吹き出した。「なんか、すごく手つきが慣れてるっていうか……そこ、すごく、いい……」。
「あ、いや……抱っこで腰が痛くて。ストレッチの動画とか見て、身体の仕組みを、勉強してて……」。喉を鳴らし、必死で言い訳を捏ねる。すると玲子は、疑うどころか、とろけたような笑みで、悠の首に両腕を回してきた。「ふふ……そっか。ねえ、最近、何かいいことあった? なんだか今日の悠、すごく男らしくて……かっこいい」。
無邪気な称賛。夫の変化を「自分への愛」だと信じて疑わず、満たされていく妻の表情。その無垢な反応こそが、悠の胸を、深くえぐった。妻が満たされていくほど、悠の喉の奥は、苦くなった。この指の余裕も、腰の使い方も――全部、妻ではない誰かが、教えたものだ。
果てた先に、浮かんだ顔
罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、欲望に火のついた身体は、止まらなかった。ベッドのきしみと、満足そうな妻の喘ぎ。激しく腰を打ちつけながら、悠の脳裏には、妻の顔ではなく、昼間に味わった莉乃の肉感や、麻衣の湿った吐息が、濁流となって押し寄せていた。
「あぁっ、悠……! 悠……っ!」。妻が高みに達し、悠もまた、声を殺して、奥歯を深く噛みしめた。果てていく、最奥の感触。その極限の快楽の中で、悠の瞼の裏に、最後に浮かんだのは――玲子でも、麻衣でも、莉乃でも、なかった。
(……栞さん)。古書店の薄暗がりで、静かに本を繰る、あの透明で儚げな、年下の店員の面影だった。妻に向き合えば、戻れるはずだった。なのに――いちばん強く浮かんだのは、まだ指一本触れていない、あの年下の店員の顔だった。
――静まり返った寝室。「……今日、すごく嬉しかった。ありがとう、悠」。満たされきった玲子は、悠の胸に幸せそうに顔をうずめ、ほどなく、穏やかな寝息を立てはじめた。
腕の中で眠る妻。その髪を撫でながら、悠は、暗闇の中で静かに目を開けていた。妻を満たした手つきも、まだ疼く身体も、瞼の裏に残る面影も。そのどれ一つ、玲子が与えたものではなかった。
(俺は……もう、引き返せないんだ)。満たされた家庭の温もりの、その中心で、自分だけが、冷たく歪んだ沼へ沈んでいく。その事実を、悠は暗闇の中で、ただ静かに、噛みしめていた。
(第10話へ続く)
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