※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。18歳未満の方は読めません。
スイミング講師の莉乃(りの)との、あの汗ばんだ昼下がりから――そして、久しぶりに妻を抱いた、あの夜から。数日、悠(ふじみや ゆう)は、逃げるように、木漏れ日書房の古い扉を押していた。後ろめたさばかりが積もっていく日々のなかで、この店の、埃と古い紙の匂いだけが、なぜか悠に、まっすぐ呼吸をさせてくれた。
また、あの古い扉を
「いらっしゃいませ」。カウンターの奥から、静かな声がした。栞(しおり)は今日も、めがねの奥の、色の薄い瞳を本に落として、一冊の文庫を繰っている。幼い顔立ちに不釣り合いな、落ち着いた佇まい。悠はもう、彼女を「若い子」だとは思っていなかった。この年下の店員は、悠の知る誰よりも、静かで、自分の世界を持っていた。
棚のあいだを、あてもなく歩く。本当は、探している本などなかった。ただ、ここに来ると、麻衣(まい)の湿った吐息も、莉乃の肌の熱も、そして妻の無邪気な笑みも――自分がこの手で汚してきたものすべてが、少しだけ遠のく気がした。栞が、返却された本を一冊、両手で棚へ戻す。まるで、生きものか、壊れ物でも扱うような、丁寧な手つきで。悠は、その手を、また目で追ってしまった。
思い出に残る、一冊
会計のとき、悠は、なぜか口を開いていた。「……栞さんは、好きな本とか、思い出に残る一冊って、ありますか」。栞は、少しだけ手を止めて、それから、困ったように、ごくかすかに笑った。
「好きな本は……本当に、本当にたくさんあって。選べません」。それから、彼女は少し目を伏せた。「でも、思い出というか……心が、すっと救われたような一冊なら、あります」。言いかけて、栞は、あ、と小さく声を漏らした。「……でも、それ、本じゃなくて。文芸誌に載った、短い小説だったんです。だから、残念ながら、ここには置いてなくて。……わたしの自宅に、大切に、保管しています」。
夢は君のものだ
「わたし、昔……なりたいものが、あったんです」。栞は、レジの上の本の背を、指先でそっと撫でた。「絵本を、作りたくて。自分で、お話と絵を描く人に」。悠は、黙って聞いていた。「でも、いろんな人に言われました。食べていけない、才能がない、現実を見ろって。……そのうち、自分でも、そう思うようになって。他人の“いい・悪い”の物差しでしか、自分を測れなくなって。それで、描くのを、やめました」。
淡々とした声だった。けれど、その淡々とした響きのなかに、簡単には触れられない深さがあった。「絵を、やめて。しばらく、何をしても、うまく息ができなかった時期があって。……そんなときに、たまたま、そのころ出たばかりの文芸誌で、その小説を読んだんです」。
「新人賞の、佳作の短編でした」。栞は続けた。「画家を目指す、若い男の子の話で。夢に挫折して、旅先の湖のほとりで、絵を描く老画家に出会うんです。構成は、平凡だったかもしれません。でも、なんだか、文体が好きで。……その中の、たった一行に、わたし、救われました」。
悠の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。――湖のほとりの、画家。まさか、と思う。
栞は、少し目を伏せて、その一行を、大切そうに口にした。「その老画家が、絵を諦めかけた主人公に、言うんです。『夢は君のものだ』って。……ただ、それだけ。たった一行なのに、あれで、やっと、息ができるようになったんです。他人の物差しなんて、関係なかったんだって。夢は、わたしのものだったんだって」。
悠は、言葉を失っていた。間違いなかった。それは、俺の――五年前の、処女作だ。文芸誌の新人賞で、たった一度だけ佳作をとった、あの短編。湖畔の老画家に、画家を志す青年――音無玲(おとなし れい)が救われる話。誰にも読まれず、忘れられたと思っていた、自分の一行だった。
名乗り出られない、もうひとつの理由
喉まで、言葉が出かかった。――それ、僕が書いたんです。だが、その一言は、口の中で固まって、動かなかった。最初にこの店で、自分を「在宅で、ウェブの文章を書く仕事」だと偽った、あの嘘が、真実の喉を塞いでいた。
それに――もし言えたとして、今の自分に、あの一行を書いたと名乗り出る資格が、あるだろうか。「夢は君のものだ」と書いた男は、いま、他人の妻を抱き、その経験を土産のように持ち帰り、自分の妻さえ欺いている。栞が救われたのは、五年前の、まだ何も汚していなかった悠だ。その悠は、もう、どこにもいない。
「……いい、話ですね」。ようやく、悠はそれだけを言った。栞は、こくりと頷いて、少し照れたように続けた。「その作家さんの小説、いつかまた出ないかなって、ずっと心待ちにしてたんです。……でも、それきり、一冊も。もしかして、別の名前で書いてたりしないかなって、似た文体の本を探して、あちこち読んでるうちに――気づいたら、本に、やたら詳しくなっちゃって」。彼女は、おかしそうに、小さく笑った。「たぶん、わたしがこんなに本ばかり読むようになったのも、半分は、あの一行のせいなんです」。
その言葉が、悠の胸を、深く抉った。栞は、五年ものあいだ、悠のつづきを探していた。別の名前を、似た文体を、まだ見ぬ一冊を。――探し続けている“その作家”は、いま、目の前にいる。筆を折って、他人の妻を抱いて、まったく別の場所へ堕ちてしまった、この自分だ。けれど、栞がそれに気づく日は、たぶん、来ない。
栞は、本を棚へ戻しながら、独り言のように、小さく付け足した。「……今でも、たまに、描きたくなるんです。誰にも、見せないですけど」。その横顔を、悠は、それ以上、見ていられなかった。会釈をして、逃げるように、店の扉を押した。ドアベルの音が、やけに長く、耳に残った。
捨てて、ゼロから
家に帰り、ひなを寝かしつけてから、悠は、原稿のファイルを開いた。栞と出会ってから、行き詰まっていた指は、少しずつ、動くようになっていた。また書けるようになったのは、たしかに、あの店の、あの人のおかげだった。
けれど今夜は、それとは、違った。しばらく画面を見つめてから、悠は、ここ数か月なんとか繋いできた書きかけの原稿を、ためらいなく、すべて閉じた。――こんなものじゃない。捨てよう、と思った。うまく書こう、読まれるように書こうと、いつのまにか、他人の物差しばかりを気にしていた。栞が、やめてしまったのと、同じように。
栞を救った、あの一行。あれを書いたときの自分には、たしかに、何かがあった。売れるかどうかも、才能があるかどうかも、まだ何ひとつ考えていなかった、まっすぐな衝動が。――もう一度、あそこから書きたい。今まで書いてきたものを全部捨てて、ゼロから。はじめて小説というものを書いた、あの夜のように。
新しいファイルを、白いまま開く。カーソルが、静かに点滅している。書きたいことが、ある。いつか、これを栞に読んでほしい、とさえ思った。……もっとも、その日が来るのか、来たとして、自分にその資格があるのかは、まだ分からない。それでも、悠は、最初の一行を打ちはじめた。かつて自分が書いたはずの言葉が、今夜は、静かに背中を押した。――描き続けている限り、それはまだ下描きだ。下描きに、失敗なんてない。窓の外が白みはじめても、悠の手は、止まらなかった。
(第11話へ続く)
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