なぜ女性は男性同士の恋愛を読むのか|30年分の言説を、結論を1つに絞らずに並べる

静かな部屋で少しだけ向き合う、空いたままの二脚の椅子

この問いは、何度も投げられてきました。そして、何度も答えられてきました。ただ、その答えは一つではありません。互いに対立する説明がいくつも並んでいて、しかも「そもそもその問い方でいいのか」という批判までが、すでに三十年以上前から積み上がっています。ここでは、これまでに出されてきた言説を、できるだけそのままの形で並べます。結論を一つに絞ることはしません。

先に断っておきたいこと

この記事は、BLを読む人の心理を説明する記事ではありません。「あなたたちはこういう心理でこれを読んでいます」と書くことは、この記事の目的ではないからです。

理由は単純で、それをやると必ず外れるからです。BLの読者は数の上でも動機の上でも一枚岩ではなく、後述するように「女性読者」という括り自体が、研究の側から疑われてきました。ある一人の読者に当てはまる説明が、別の一人にはまったく当てはまらない。その状態で「女性は◯◯だから男性同士の恋愛を読むのです」と書けば、それは説明ではなく、ただの偏見になります。

ですので、この記事にあるのは「こう説明する説がある」「それに対してこう反論されている」という形の記述だけです。どれが正しいかの判定は書きません。説が並立している状態そのものが、この主題の現在地だと考えるからです。

■ この記事が読んだもの

参照したのは、日本のBL・やおい批評を整理した学術的なレビュー(樋口優也『日本のBL・やおい批評の諸相』、国際基督教大学ジェンダー研究センターのレインボー賞受賞論文要旨・2015年度)と、やおい論争以降の言説史を扱った修士論文の要旨(岡田夏実「男性同性愛表象としてのBLをめぐる言説とコミュニケーション―やおい論争から現在まで―」明治大学大学院・2017年)、および海外の定量研究が中心です。以下、誰の主張なのかが分かるように、そのつど出典を添えます。

「女性の趣味」として説明されてこなかった、という事実

まず、研究の側がこのジャンルをどう扱ってきたかから始めます。ここは意外と知られていない部分です。

樋口の整理(2015年度)によれば、やおい/BLの研究には大きく二つの流れがあります。一つはジャンルの発生と発展を辿る系譜的な研究、もう一つはやおいの特徴を分析する批評です。系譜のほうでは、やおいは1970年代に少女たちのあいだで人気を得た少年愛マンガに端を発し、アニメ同人誌の登場とともに広がり、その後1990年代に「BL(ボーイズラブ)」というジャンルが成立した、と説明されます。

重要なのは、そのあとです。同じ整理によれば、やおい研究は一貫して、やおいを「女性の単なる趣味や気まぐれ(a taste or fancy for female)」としてではなく、男性中心社会における女性の社会的抑圧の問題、および家父長的なジェンダー規範に抵抗する女性の性的主体性の問題して論じてきました。

つまり、この問いに対する学術側の初期の答えは、おおむね「女性が置かれた社会的な条件の問題である」という方向を向いていたことになります。個人の性癖の話ではなく、社会構造の話として扱われてきた。この前提を知らずに「なぜ女性は」と問うと、しばしば話が噛み合いません。

■ ただし、これも一つの説にすぎません

抑圧からの回避、あるいは抑圧への抵抗。この説明は長く支持されてきましたが、これですべてが説明できるわけではないことも、同じ整理のなかで示唆されています。抑圧を感じていない読者はBLを読まないのか、と問えば、すぐに反例が出てきます。後述するように、やがて議論の焦点は「ジェンダー」から「セクシュアリティ」へと広がっていきました。

心理学からの説明と、その扱いにくさ

心理学の側からも説明が試みられています。山岡重行『腐女子の心理学』(福村出版・2016年)は、心理学的な理論と調査データから、この問いに答えようとした本として知られています。日本パーソナリティ心理学会の書評ページで確認できる範囲では、BLには「実際には起こりえない」ことと「性を超えた聖なる愛」という二重の安全装置がある、といった説明が提示されているようです。

ただ、こうした心理学的な類型化は、それ自体が論争的です。ある集団の性格傾向を測って「だからこの趣味を好む」と結論づける手続きは、測った側が想定した枠の外にいる人を、そのまま枠の外に置き去りにします。この記事は、「そう説明する研究がある」という形で紹介するにどめます。これを読者一般に当てはめて語るのは、この記事がやらないと決めたことに当たります。

■ 定量研究は、たしかに存在します。ただし中身を見てください

やおい消費の動機を定量的に測った研究はあります。PLoS Oneに2018年に掲載された研究では、31項目の尺度(Yaoi Consumption Motives Questionnaire)を使って、9つの動機の因子が取り出されています。「ジェンダーを超えた“純粋な“愛とゲイに友好的な態度」「同一化・自己分析」「メロドラマ的要素」「標準的な恋愛ものへの忌避」「女性向けの恋愛/エロティックなジャンルとして」「純粋な現実逃避」「芸術性と美学」「純粋な娯楽」「性的な喚起」の9つです。

ここで注意が要ります。この研究の標本は724名、うち58%が男性、平均年齢30.1歳、ハンガリーで実施されたオンライン調査です。つまり、「なぜ女性は」という日本語の問いに答えるための材料としては、標本の国も性別構成も、そのままでは当てはまりません。著者自身も、標本がやおい消費者全体を代表するものではないこと、ハンガリーおよび米国の文脈で開発された尺度であり一般化できない可能性があることを、限界として明記しています。

この研究を根拠に「研究によれば女性は◯◯という動機で読んでいる」と書くのは、標本の作りからして無理があります。数字があること自体は、その数字が問いに答えていることを意味しません。

避けて通れない論点――やおい論争

この問いを扱う以上、触れないわけにいかない出来事があります。やおい論争です。

岡田の整理(2017年)によれば、やおい論争は1992年から1996年にかけて、フェミニズムのミニコミ誌『CHOISIR』誌上で行われた、ゲイ男性と愛好者とのあいだの論争でした。争点は、女性向けの男性間恋愛フィクションが持つ差別性です。最初の投稿者であるゲイ男性・佐藤雅樹が「ヤオイなんて死んでしまえばいい」と書いたことで、この論争はセンセーショナルに受け止められました。同じ整理は、この論争が当時のゲイ・リブ運動の高まりとゲイ・ブーム、そして商業ジャンルとしてのBLの勃興という、かなり限定的な文脈のなかで起きたことも指摘しています。

ここで押さえておきたいのは、この論争が「フィクションの中の男性同士」と「現実に生きているゲイ男性」は別物なのか、という問いを正面から突きつけたことです。そして、この論点は一度で終わらず、その後も繰り返し提起されてきました。

■ 批判の側が言ったこと

佐藤に続いて批判を行ったキース・ヴィンセントは、岡田の整理によれば、やおい論争そのものからというより自身のやおい制作者たちとの出会いから、ゲイが過剰に美化されることを危惧しました。のちに小谷真理との対談では、これをゲイとフェミニズムがいかなる関係を築いていくかという問題として捉え直しています。そして2007年の論文では、佐藤がやおい論争を通じてフェミニズムへの理解を深めていったことを評価する一方で、ゲイを単なる記号としてしか描かないやおいの作品はホモフォビアに対抗できない批判しました。

石田仁は、別の角度から問題を提起しています。岡田によれば、石田が問題にしたのは「腐女子」の「批評を拒絶する態度」でした。やおい/BLはゲイ男性を参照して「表象の横奪」行っていながら、「やおい/BLはファンタジーであり、現実のゲイとは関係ない」と主張することで批判を回避している、という指摘です。

この指摘は重い問いを含んでいます。「フィクションだから」という切り分け自体が、批判を受け取らないための装置として機能しうる、言っているからです。

■ 応答の側が言ったこと

これに対して堀あきこは、岡田の整理によれば「やおいにおけるゲイ男性への参照は究極の愛を描くための装置でしかない」と反論しました。同時に、ゲイと「腐女子」のあいだの「共闘可能性」示唆しています。対立の構図だけで終わらせない道を示した、読める応答です。

そして石田自身も、その後2007年の論文が英訳される過程で一部を改稿し、BL作品の新しい傾向を紹介しつつ、やおい/BLが「女性の自律的欲望」に基づいているという主張に対して、「表象の横奪」であることと「女性の自律的な欲望」であることの双方が、やおい/BLに不可欠である主張するに至ります。どちらか一方ではない、という立場です。

さらに溝口彰子は、やおい論争そのものの再評価を行いました。岡田によれば溝口は、佐藤雅樹が実際にはゲイと女性のあいだに議論を巻き起こし、両者の関係を再考する機会を提供するためにあえてあのような過激な文章を書いたことを明らかにし、やおい論争を、ゲイ男性とBL愛好家女性の対話の機会として捉え直しています。

岡田の結論の一つは、この一連の流れを通じてイ男性と愛好者は、対話によって互いに変化してきたいう点にあります。論争は勝敗で終わったのではなく、双方の位置を動かした、という読み方です。

■ この論点を、この記事はどう扱うか

フィクションのBLと、現実のゲイ男性の生は別物です。この一文は、書くだけなら簡単です。しかし上に見たとおり、その「別物である」という切り分け自体が、当事者から三十年にわたって問われ続けてきました。ですので、この記事はそれを結論として書きません。問われ続けている、という状態そのものを、事実として書きます。

お、溝口彰子は後年「進化形BL」という概念を提示しています。太田出版の対談ページで確認できる本人の言葉では、これは「現実にリンクして、現実よりもホモフォビアを乗り越えていく」作品を指すものとされています。批判に対する応答が、批評の言葉だけでなく作品の側からも試みられてきた、ということになります。

「女性は」と括ることの、その中身

ここまで「女性は」と書いてきましたが、この括り方自体が、研究の側から疑われています。

岡田の整理によれば、1990年代までゲイ文化や「ゲイ・ブーム」との連続性のなかで捉えられていた女性向け男性間恋愛フィクションは、「オタク」との結びつきによってそれらから分離し、2000年代の「腐女子ブーム」を通じて、その愛好者が「腐女子」という特定の人物類型として構築されていきました岡田はこれを、作品とその愛好者という関係から、「腐女子」とその趣味の対象という関係への逆転起こった、と表現しています。

そして、そのように立像された「腐女子」は、フェミニズムの成果としてのキャリア女性と対比されるなかで、また交際する男性の目を通じて描き出されるなかで、異性愛規範的な「男性と交際する『普通』の女の子」して形づくられていった、と指摘されています。

つまり、「BLを読む女性」という像は、自然にそこにあったものではなく、2000年代のある時期に、ある形で作られたものだ、という見立てです。

その像から、こぼれ落ちた人たち

この構築には代償がありました。岡田はレインボーリール東京での参与観察を通じて、「腐女子」像に当てはまらない愛好者や読者の存在、そして「腐女子」と性的マイノリティの文化的な混淆を確認し、「腐女子」言説が、このジャンルのクィアな文化的広がりを隠蔽してきたことを明らかにした、としています。

この指摘は、この記事の問いそのものに刃を向けます。「なぜ女性は男性同士の恋愛を読むのか」という問いは、読者を「女性」で、しかも異性愛規範のなかにいる女性で代表させています。実際にはそこに収まらない読者がいる、というのが観察の結果です。

だとすれば、この問いに一つの答えを出すことは、そもそも構造的に無理があります。答えを出せば、必ず誰かがその答えの外に置かれるからです。

問い方そのものについて――なこの問いだけが繰り返されるのか

この問いには、もう一つよく指摘される論点があります。「なぜ女性は男性同士の恋愛を読むのか」とは繰り返し問われるのに、男性による性的な消費は同じようには問われない、という非対称です。問いが特定の集団にだけ向けられること自体が、その集団を説明を要する存在として扱っている、という指摘です。

この非対称は、言い方を変えると「どちらが説明を求められる側に立たされているか」の差です。男性向けの成人向け作品に対して、ジャンルの成立史や読者の心理まで遡って「なぜ男性はこれを読むのか」が真顔で問われる場面は、あまり多くありません。説明を求められないものは、その場ではすでに「当たり前のもの」の位置に置かれている、ということになります。問いが向けられる側と向けられない側の差は、趣味の内容の差というより、どちらが標準の位置に置かれているかの差だと考えられます。

この見立ては、前節で見た岡田の指摘とつながります。愛好者が「腐女子」という人物類型として構築され、その像が異性愛規範のなかに回収されていった――という整理は、「BLを読む人が、名指され、類型化され、説明を求められる側に置かれてきた」いう構造を示しています。非対称という言葉で語られてきたものの一部は、この構造と地続きだと考えられます。

お、この非対称は「問う側が悪意を持っている」という話とは限りません。珍しいものを珍しいと感じて理由を知りたくなるのは、それ自体は自然な反応です。ただ、何を珍しいと感じるかはその人がどこを基準に置いているかで決まります。問いの形は、問われる対象の性質だけでなく、問う側の立ち位置も映している、という見方ができます。

■ 答えが一つにならない、ということ

この記事は、答えを出さないまま終わります。それは書き手の逃げにも見えるかもしれません。ただ、ここまで並べてきたとおり、この問いには「社会的抑圧の問題として説明する説」「心理的な安全装置として説明する説」「そもそも問い方が間違っているという指摘」が並立していて、しかも三十年前の論争がまだ終わっていない、ということです。

終わっていないものを終わったことにして一行で答えるほうが、この主題に対しては不誠実だと考えます。

それでも、作品の側で起きてきたこと

言説の話ばかりが続きましたが、作品の側でも変化は起きています。

岡田の整理によれば、2000年代中盤から「ニューウェーブ」と呼ばれる新しいBL表現が生まれています。岡田はその先駆的存在として東京漫画社の初期作品を挙げ、日常性と男性身体という二つの側面から分析したうえで、これらの作品が従来「王道」と呼ばれてきた主流派の作品とは異なり、我々の現実と地続きであるような作品世界を模索してきた論じています。

批判に対する応答は、論文のなかだけで行われたわけではありませんでした。「現実のゲイとは関係ない」という切り分けを問われた側が、現実と地続きの場所へ作品そのものを動かしていった、という流れがそこにはあります。溝口の言う「進化形BL」も、方向としては同じ場所を向いています。

■ 誰が書いたのか、という単位で見ると

ここまで見てきたことを、本サイトの視点――作品ではなく作り手を単位に見る――に引きつけると、一つ言えることがあります。

「なぜ女性は男性同士の恋愛を読むのか」という問いは、読者を一つの塊として扱います。ですが実際には、書いている人がいて、その人が何を考えて何を描き、どこで手つきを変えたかという履歴があります。ニューウェーブと呼ばれる変化も、抽象的な「ジャンルの進化」として起きたのではなく、個々の作り手が現実との距離を測り直した結果として積み上がったものです。

読者を括って説明しようとすると、この記事のように行き止まりに着きます。ですが作り手を一人ずつ見ていくと、少なくとも「この人はこう考えてこう描いた」という、確かめられる形の答えが出てきます。問いの単位を変えると、答えられることが変わる。この主題については、そちらのほうが実りがあるように見えます。