※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。18歳未満の方は読めません。
藤宮悠(ふじみや ゆう)は、木漏れ日書房の重い扉を、そっと後ろ手に閉めた。カウンターで会計をしてくれた店員の栞(しおり)は、今日も静かで、どこか浮世離れした横顔をしていた。もう少し話してみたかった。書けずにいる自分の焦りを、この人になら少しだけ打ち明けられる気がした。けれど、何ひとつ結果を出していない人間が、これ以上、彼女の世界に踏み込む口実など、そう都合よくは見つからない。悠は、選んでもらった一冊を鞄にしまい、店を出た。
秋の風が、頬を撫でていく。あの麻衣の家の昼下がりから、もう何日が過ぎただろう。越えてはいけない一線を越えたという事実は、日を追うごとに薄れるどころか、ふとした瞬間に鈍く胸をよぎった。それでいて、その痛みのすぐ隣に、栞の顔が、理由もなく浮かんでくる。自分でもうまく説明のつかない秋だった。
落ち葉のベンチで、本を開く
いつもなら、そのまま家へ帰る。けれど今日は、なんとなく足が、隣町の大きな公園まで伸びた。人の少ない、落ち葉の積もったベンチ。途中のカフェで買った熱いコーヒーを片手に、腰を下ろす。栞に選ばれた本を開くと、渇いていた頭の奥へ、また静かに水が沁みていくようだった。
どれくらい、そうしていただろう。気づけば、片手のコーヒーはすっかりぬるくなり、傾いた陽が、ページの上に木々の影を落としていた。物語に沈んでいた意識が、ふと、誰かの視線のようなものに引き上げられる。顔を上げると、少し離れたところに、一人の女性が立っていた。こちらを見て、迷うように、けれど確かに、近づいてくる。
「あれ……藤宮さん?」
膝上丈のタイトなニットワンピースに、長めのコートを羽織っている。肩に垂れた、艶やかな黒髪。手には、コンビニのものらしいコーヒーカップ。綺麗な人だ、とは思った。けれど、記憶のどこを探しても、その顔に心当たりがなかった。
うなじで、髪を束ねる仕草
「あ……えっと、すみません」。困惑して身をすくめる悠に、彼女は「ふふっ」と笑った。「ですよね。いつも髪、上げてるから」。
そう言うと、彼女はコーヒーをベンチの端に置き、両手を後ろへ回した。豊かな黒髪を持ち上げ、うなじの後ろでキュッと束ねる。その瞬間、コートの襟からのぞいた白い首筋と、ふわりと立ち上る清潔なシャンプーの匂いに、悠の胸が、勝手に跳ねた。
「……スイミングの、佐々木先生」。口をついて出た瞬間、鼓動が速くなった。娘のひなが通うスイミングスクールで、いつも子どもたちを指導しているインストラクターの女性。付き添いでプールサイドに立つとき、悠がいつも意識して視線を逸らしていた相手だった。競泳水着、水を弾く肩、ハイレグから伸びる健康的な太もも。あの「先生」が、私服で髪を下ろしただけで、まるで別の女性のように見えた。
「よかった、思い出してもらえて」。彼女は屈託なく笑った。
「奇遇ですね。この公園、よく来られるんですか?」
「いえ、今日、初めてで。気分転換に、少し足を伸ばしてみたんです」
「そうなんだ。私はね、この近くのピラティスに通ってて、その帰り」。彼女は、手にしたコーヒーカップを軽く掲げてみせた。
「あの、お隣、いいですか?」。断る理由もなく悠が荷物を引き寄せると、彼女は「失礼します」と、すぐ隣に腰を下ろした。ひとつのベンチに、二人。コートの隙間から、体温と甘い匂いが、ふわりと届いた。
言い淀まなかった、自分の職業
「藤宮さんは、お仕事、何をされてるんですか?」
いつもなら、言い淀む問いだった。働いていない主夫だという劣等感が、喉を詰まらせる。けれど彼女の、からりと開けた空気の前では、不思議と素直な言葉が出た。
「えっと……物書き、というか。小説家志望で。まだ、何も結果は出てないんで、恥ずかしいんですけど」
「えっ、すごい」。彼女は、目を丸くした。「そういう人、周りにいなかったから、新鮮です」。
悠は、思わず苦笑した。すごくない、と言おうとして、やめた。この人の前だと、その言葉が、なぜか出てこなかった。
「藤宮さんって、おいくつなんですか?」
「三十二です」
「えっ、若い」。彼女は、大げさに目を見張ってみせた。「私、もう三十四なんですよ。……ちょっとお姉さんですね」。冗談めかして肩をすくめる仕草は、年上には見えないほど、あどけなかった。
「体験モニター」という、お願い
それから彼女は、何かを思いついたように、ぽんと手を打った。「そうだ。……あの、変なお願いなんですけど」。
「実はわたし、いつか自分でピラティスとリラクゼーションのお店を出したくて。今、その勉強中なんです」。彼女は、少し声を弾ませた。「それでね、練習台というか……体験モニターに、付き合ってもらえないかなって。迷惑じゃなければ、ですけど」。
「モニター、ですか」。「そう。女性の知り合いは多いんですけど、男性がほとんどいなくて。男性向けの指導って、相手がいないと感覚が掴めないんです」。
「男性向けの指導」――その言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。けれど彼女の目はまっすぐで、プロの熱意に満ちて見えた。取材にもなる、知人のサロンを手伝うだけだ。そう自分に言い聞かせて、悠は頷いていた。「僕でよければ。昼間は、割と時間があるので」。
スマホをかざし合う。画面に表示された名前は、「佐々木 莉乃(ささき りの)」。莉乃、というのか。名前まで、どこか涼やかな人だと思った。「じゃあ藤宮さん、近いうちに連絡しますね。今日は、ありがとうございました」。
去り際に、もう一度振り返って
コートの裾をひらりと翻し、莉乃は軽やかに去っていった。タイトなニット越しに揺れる健康的なヒップのラインから、悠は最後まで目を逸らせなかった。
去り際、莉乃がもう一度だけ振り返って、笑ってみせた。その明るい笑顔を見送りながら、悠の胸は、まだ少しざわついていた。
――もっとも、この公園に「今日、初めて来た」のは、悠のほうだけだった。莉乃がなぜ、あのタイミングで、あのベンチのそばを通りかかったのか。それを深く考えるには、悠は少し、浮かれすぎていた。
妻の玲子には、言えない。けれど、これはただのモニターだ。やましいことなど、何もない――。そう思おうとして、あの麻衣の昼下がりと同じ、平坦な声で自分に嘘をつく癖が、また出はじめていることに、悠は気づかないふりをした。
(第6話へ続く)
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