※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。18歳未満の方は読めません。
藤宮悠(ふじみや ゆう)には、妻にも言っていない、ひとつだけの浪費がある。本だ。妻の玲子から渡される月々の小遣いは、ほとんど手をつけずに貯金している。働いていない自分が自由に使う金など、と思うと、どうしても後ろめたい。それでも、本だけは別だった。文字で組み上げられたものの前にいるときだけ、悠は、売れない小説家であることも、専業主夫であることも、いっとき忘れられた。
馴染みの店に立つ、馴染みのない少女
娘のひなを保育園に送った帰り、悠が通い慣れた古書店がある。「木漏れ日書房」という、間口の狭い、古い店だ。店主の遠藤さんは人のいいおじいさんで、悠が探している本の題を告げても、「はて、どこにあったかな」と、一緒に棚を巡ってくれるのが常だった。その、非効率で温かい時間が、悠は嫌いではなかった。その遠藤さんが、先月から体を壊して入院している。店を畳むという話も聞こえてきて、悠は気を揉んでいた。
ところが久しぶりに覗いてみると、店の灯りは、いつもどおり点いていた。「いらっしゃいませ」。カウンターの奥から、静かな声がする。立っていたのは、見慣れない女の子だった。あどけない顔立ちは、高校生か、せいぜい女子大生といったところ。遠藤さんの、お孫さんか、親戚の子だろうか。悠は勝手にそう納得して、軽く会釈だけして、目当ての棚へ向かった。
だが、探している本が、見つからない。少し前に読んだ随筆の、続編。装丁が水色で、雨の匂いの話が入っていた――それだけは覚えているのに、肝心の著者名も題も、どうしても思い出せない。自分が悪いのだ。棚を三周しても、それらしい背表紙は、出てこなかった。
バイトのあの子に訊いても、どうせ分からないだろう。そう思いつつ、せっかく来たのだ、ダメ元で訊いてみるか――悠はカウンターへ足を向けた。彼女は、レジの内側で、一冊の文庫本に目を落として、読んでいた。
幼い顔に、不釣り合いな“女”
近づいて、悠はハッとした。メガネの奥の、少し色の薄い瞳は、透き通るようで、どこか儚さを感じさせた。それでいて――えんじ色のエプロンの下、飾り気のないブラウス越しに伝わってきたのは、その幼い顔立ちからは思いもよらない、豊かで、柔らかそうな胸のふくらみの輪郭だった。彼女が本を戻そうと、下の棚に身をかがめた瞬間、ブラウスの生地がぴんと張りつめて、そのはっきりとした肉感が、あらわになる。
「あ、すみません。本を、お探しですか」。落ち着いた、けれど、どこか少しだけ湿り気を含んだ声が、耳もとに落ちた。悠は、慌てて視線を棚へと逃がした。目のやり場に困るほど生々しい「女」の気配に、喉の奥が、かっと熱くなるのを、隠せなかった。――この子は、少女なんかじゃない。
「あの……昔の、随筆で。たしか、装丁が水色で、雨の、匂いの話が入っていて……」。我ながら、要領を得ない。遠藤さんなら「はてねえ」で終わっていたところだ。ところが彼女は、ほんの少しだけ首をかしげると、迷いのない足取りで奥の棚へ歩き、一冊を抜いて、差し出した。「これですか」。――正解だった。悠は、しばらく、言葉を失った。
礼を言って本を買い、店を出る。夕暮れの道を歩きながら、悠は、まだ胸の奥がざわついているのに気づいた。あの声。あの、幼い顔にはまるで不釣り合いな、女の気配。……いや、と悠は打ち消す。ただ、珍しいものを見ただけだ。そう思おうとして、どうしてか、うまくいかなかった。
また、あの店の扉を押していた
それから悠は、以前より少しだけ、足しげく木漏れ日書房に通うようになった。理由は、自分でもうまく説明できなかった。本を探すだけなら、大きな書店でも、ネットでも済む。それでも気づけば、悠は、あの古い扉を押している。
ある日の会計のとき、彼女がふと訊いた。「今日は、どういう気分で、どんな本を読みたいですか」。奇妙な問いだった。けれど悠は、なぜか正直に答えていた。最近、頭の中がからからに渇いて、うまく物が考えられない、と。仕事のことだと、取り繕いながら。
彼女はしばらく黙って、それから、一冊を、そっとカウンターに置いた。悠が探していたものとは、まるで違う本だった。「これです」。悠は面食らった。「え、一冊? こういうときって、何冊か候補を出してくれるものじゃ……」。彼女は、そこで初めて、ごくかすかに笑った。「いえ。これです。あなたは、この本を読むべきです。……何となく、ですが。自信があります」。
その、迷いのない断言の仕方に、悠の中の何かが、静かに反応した。異性として、ではない。ただ、この年下の店員は、ほかの誰とも、どこか違っていた。自分だけの静かな世界を持っている――そんな感じがした。悠が、小説で書きたくて、けれど、どうしても書けなかった人物像に、彼女はどこか、近い気がした。もっと、この人と話してみたい。そう思った瞬間、自分が彼女を無意識に”観察”していることに気づいて、悠は、少し戸惑った。胸の名札には、「栞」とだけあった。本屋の子で、栞。まるで、小説の題みたいだ、と悠は思った。
言えなかった、ひとこと
「お客さん、本、お好きなんですね」。栞が言った。「お仕事は、その……そういう、ご関係の?」。悠は、一瞬、言葉に詰まった。小説を書いています、とは、言えなかった。何ひとつ結果を出していない人間が名乗るには、その肩書きは、あまりに重すぎた。「……在宅で、まあ、ウェブの文章を書く、しがない仕事を、少し」。半分だけ本当の、嘘をついた。栞は「そうですか」と、それ以上は何も訊かなかった。その、詮索をしない距離が、悠には、なぜかありがたかった。
悠が店を出ようとしたとき、栞はもう、棚の整理に戻っていた。文庫を一冊、両手で――まるで壊れ物か、あるいは生きものでも扱うように、そっと棚へ戻している。その、本への触れ方のあまりの丁寧さを、悠は、思わず目で追ってしまった。この人はきっと、自分などよりずっと、言葉というものを大切にして、生きているのだろう。そう思うと、”ウェブの文章を書く仕事”だなどと嘘をついた自分が、少しだけ、恥ずかしくなった。ドアベルの音を背に、悠は、夕暮れの街へと出た。
数行だけ、指が動いた
家に帰ると、玲子はまだ戻っていなかった。ひなを寝かしつけてから、悠は、栞に選ばれた一冊を開いた。それは、自分では一生手に取らなかったであろう本で、けれど、読み進めるうちに、渇いていた頭の奥へ、じわりと水がしみていくようだった。
気づけば悠は、久しぶりに、原稿のファイルを開いていた。指が、少しだけ、動く。ほんの数行。けれど、この数か月、一文字も前に進まなかった悠にとって、それは、ちょっとした事件だった。「……なんで、分かったんだ」。あの確信に満ちた声を思い出しながら、悠は久しぶりに、書くことが、怖くなかった。
その日、悠は、帰り道も、家に帰って原稿に向かってからも、ふとした拍子に、栞のことを――交わしたわずかな会話を、記憶の中で何度も反芻している自分に気づいた。いかん、いかん。妻のいる身で、妻以外の女性のことを、考えすぎだ。悠は、心の中でそっと、自分をたしなめた。
頭を切り替えようとした、そのときだった。ふと、台所の隅が、目に入った。
相沢麻衣が置いていった、まだ洗えていないタッパー。あの夜のことが、胸の奥で、鈍く疼く。近いうちに、返しにいかなければ――それが、どういう夜になるのか。このときの悠は、まだ、考えないようにしていた。
(第4話へ続く)
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